ハリーズ・バー

ジュゼッペ・チプリアーニは、1900年に、北イタリアのヴェローナで生まれた。若い頃からウエイターの仕事に就き、各地のホテル、カフェで働いたのち、1927年、ヴェネツィアのホテル・エウローパ・ブリターニャのバーテンダーになる。

1930年、そのホテルのバーに、今朝のホテルをチェック・アウトしたばかりの客が、打ちひしがれた様子で戻ってきた。彼は、アメリカの百万長者の息子で、まだ大学生。名前はハリー・ピカリング。たいへんなアルコール依存症で、今回の旅はその症状を癒やすため、伯母と執事で禁酒旅行している途中だった。

ハリー・ピカリングの禁酒症状もピークを迎え、どうしてもカクテルを一杯やりたくなったので、連れの伯母の目を盗んで脱走し、このバーに戻ってきたのだという。

彼は、チプリアーニのつくったドライ・マティーニを飲みながら、「折り入って頼みがあるんだけど……」と、言いづらそうに話し出した。金銭は、伯母たちが握っていて、彼は無一文だ。そして、こんな非人間的な禁酒旅行を強いられている。もう我慢ができないから、これからアメリカに一人で帰国する。ついては、このカクテル代とアメリカへの帰国旅費分として、一万リラ(アメリカドルで5000ドル)貸してくれないか?

30歳のジュゼッペ・チプリアーニにとってそれは大金だったが、ハリー・ピカリングの苦悩と懇願の表情に何か心動かされるものがあり、妻の諒承を得て、ジュゼッペはハリーに一万リラを渡した。

アメリカに戻ったハリーからは、しばらく便りがなかったが、翌年のある日、ジュゼッペのバーにハリーが突然訪れてきて、一万リラを返した。「どうも、ほんとうにありがとうございました。心からの感謝のしるしとして、こちらに四万リラを用意しました。あなたと私でバーを開きましょう。ハリーズ・バーというバーを」

ジュゼッペは、人生何が僥倖をもたらすかわからない、と感じたに違いない。ありがたく好意を受け、水上バス停留所前の倉庫を買いとり、そこにハリーとのコラボレーションで「ハリーズ・バー」をオープンした。

「読むカクテル百科」 福西英三著より

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このエピソードについて、私が知ってるエピソードは違いがあります。

簡単に覚えてたものとしては、アメリカのお金持ちの大学生ではなく、ビジネスマンでした。

イタリアでビジネスに失敗した男が、ジュゼッペにお金を借りて帰国。

そしてアメリカに戻り、ビジネスで大成功。

帰国にお金を貸してくれた感謝として、ジュゼッペにお店を出してあげたという話。

なので、また違う本を読んでみました。

やはり福西先生の内容と同様でした。

どこからビジネスマンの話を覚えてたのだろう?

固定観念かな?

調べ直すことも大切ですね。